YAIZU ZEMPACHI LETTER
イタリアはシチリアの小規模生産のオリーブオイルを、「単一畑x単一品種」のボトルで紹介している<セドリック・カサノヴァ>。一流シェフたちに愛されているフランス、パリのこの素敵なブランドを日本で紹介しているのが、今回登場していただいた勅使河原加奈子さんです。
フランスと日本の食文化をつなぐ勅使河原さんに、これまでのお仕事や日常の食生活について、お話をうかがいました。
勅使河原さんが<セドリック・カサノヴァ>を日本で展開するに至るには、フランスの料理界との深いつながりがあったそう。
「もともと私は、フランスでミシュランの星をとっているレストランのシェフを日本に招聘して、大きなホテルでのイベントを手掛けていました。当時、ホテルのトップレストランはフレンチで、ホテルにとってもディナーショーのような目玉イベントだったんです。その仕事を7年半ほどやっているうちに多くのフランス人シェフとのご縁ができて、その流れでセドリックと知り合いました」
時はバブル期。今よりも華やかなイベントが多く開催されていた時代でした。
「といっても、もともとその仕事を目指していたわけではなく。大学のフランス文学科を卒業したけれど、フランス語は話せないし、思うような仕事にもつけなかった。今思えばモラトリアム時代です(笑)。これはまずいと思って1年後に退職し、ヨーロッパへ向かったんです。バックパッカーで、イタリアや南仏をメインに2〜3週間過ごして」
「帰国してから日仏学院で勉強しながら、ワイン専門の輸入商社に就職しました。フランス語を勉強しながら働けると思って。そこでワインやフランス料理に興味が出てきたんです」
ここで学んだ知識が、その後の勅使河原さんの人生に大きな影響を及ぼしたよう。
「輸入事業部にいたんですが、そこで翻訳と編集業も経験しました。顧客向けに、フランス料理やワインに関する情報を紹介する新聞を作っていたんです。輸入業務もワインのテイスティングシートを書くこともできるようになったのだけど、担当しているヨーロッパに出張するチャンスに恵まれなくて。なら自分で行く!ってやめました(笑)」
そしてまたバックパッカーで、またイタリアやフランスを巡る旅に。
「帰国してまた稼がないとと求人情報を探したら、日仏学院でフランス人が社長を務めている会社がアルバイトを募集していたんです。今度こそフランス語が喋れるようになる!と意気込んでいたら、なんと社長が恋愛ごとでフランスに帰国してしまった(笑)。いきなり東京オフィスは私1人になってしまったんです」
アルバイトのつもりが、責任重大な仕事を1人で抱えることに。
「フランスから振られた案件を、日本で1人でこなしていました。南フランスのリゾートホテルレストランのエージェントなども手掛けている会社だったんですが、私が担当したのはフランス人シェフを日本に招聘する仕事。当時はメールもないからファックスで、北海道から沖縄までのホテルに営業をかけ、成田空港までシェフを迎えに行き、ホテルの厨房での仕込みからレシピまですべて通訳して」
体当たりで仕事をこなす勅使河原さんに、フランス人シェフたちはみんなやさしかったそう。
「アシスタントには、本国では鬼みたいなんですよ、って言われてたけど、シェフはみんな日本が楽しかったのかやさしかったですね。私も、料理の世界を知るのが面白くて。時間と火力と作業によって、素材が目に見えて変化していく。質問すると、必ず答えが返ってくるのもうれしかった」
例えば、野菜をゆでるときにたっぷり塩を入れるシェフに、それはなぜかと聞いたら、浸透圧を上げて、中の色素や栄養が流れでないようにするためと答えてくれる。それが楽しくて、どんどん質問していったそう。
「シェフたちにとっても、設備も素材も違うし、フランスと同じようにはいかない。空豆を使うレシピだけど、日本の空豆ではうまくいかない。それなら枝豆のほうがいいかもと手配してみたり。器選びもお手伝いしていたから、どんな料理にどんな器を使うのかということも覚えていきました」
逆に、日本のことも教えてあげようと、茶畑に連れていくようなこともしていたそう。同時に企画から提案することも増えていきました。
「ホテルの営業部長さんには、星付きレストランのシェフが来るという価値が伝わらないこともある。そこで、レストランウェディングにはラベンダーを敷き詰めて、歩くと香りがふわっとたつようにしましょう、なんていう工夫をして営業するようになりました。おかげで企画力もつきましたね」
東京オフィスは自分1人。家賃も自分のお給料も稼ぎ出さなくてはいけないというスパルタな日々。
「でも自由にやらせてもらえたことはありがたかった。社長はフランス人だから、バカンスにも理解がある。私はサルサが好きなのでキューバに行きたいとなると、2週間は休みたい。それを許してくれていたのも嬉しかったな」
ところが7年ほどたって、社長の再婚をきっかけに、事業がアパレル方向へシフトすることに。
「私がやりたいこととは違うなと考えていたら、シェフたちに独立すれば、と言われて。それで独立して同じ仕事を続けていたら、幼なじみの友人のご主人に、世界の蜂蜜を扱う店をやりたいから手伝ってと頼まれたんです」
それが今や蜂蜜専門店として大人気の<ラベイユ>。
「当時、日本では蜂蜜というと加工蜜や百花蜂蜜が一般的。でもフランス人シェフたちの何千というレシピを訳していると、彼らにとっての蜂蜜は単花蜜なんです。ラベンダーの蜂蜜と栗の蜂蜜では、レシピが変わってくる」
フランスやギリシャ、イタリアなどの養蜂家を訪ね、最初は80種類ほどの蜂蜜から始めました。
「売れ行きは好調で、百貨店にも出店することになりました。この蜂蜜はどんな花でどんな製法で、どんなパンやチーズに合うのかという試食コメントも書いたりして、面白かったですね。養蜂家を訪ねて蜜源を見るために、ブラジルやニュージーランド、オーストラリア、ブルガリア、コルシカなどにも行きました」
フランス人シェフたちが教えてくれたことが役立っていると感じていた勅使河原さんに、次々と仕事が舞い込んできます。
「日本のクラフトガラスメーカーのアドバイザーになり、フランスのメゾンオブジェに出展のお手伝いをしたり、<クレマン>というコックコートブランドを日本に紹介するお手伝いをしたり。<クレマン>のサボは、料理雑誌でフレンチビストロ<イレール>の島田シェフが紹介してくれたのがきっかけで大ヒット。事務所への注文電話がなりやみませんでした」
今は輸入業務を別の会社に譲ったそうですが、今度はその<クレマン>から、日本のプロ用のナイフを輸入したいと相談が。
「フランス人シェフたちはみんなこぞって、日本に来るたびに<ミソノ>のナイフが欲しいと話していたんです。それで交渉してみたら輸出できるようになって。私も使っていますが、本当に切れ味のよい洋包丁なんです」
こうして勅使河原さんの仕事が広がっていくなかで時は流れ、バブルは崩壊。レストランでのプロモーションは減ったけれど、フランスの星付きレストランが日本へ出店することも増え、そのお手伝いとしても活躍するように。
「南フランスのレンヌ・サミュという女性シェフとも仲良くなり、毎夏、彼女のレストランに通っていました。そこの次女ナディアに小麦アレルギーがあったことから、小麦粉を使わないでおいしい料理やお菓子を作るキュイジーヌリーブルという活動をスタート。グルテンフリーのフリーを自由と捉えて、使わないからこそ可能性が広がるという考え方を日本でも広めたくて、私もお手伝いをしていました。そして、ナディアがセドリックを紹介してくれたんです」
セドリック・カサノヴァは、父がシチリア出身のイタリア人。サーカスの芸人として働いていましたが、故郷のシチリアで、小さな農家の個性あるオリーブが大手メーカーにまとめて安く買い取られ、混ぜてオリーブオイルになっている事実を知って一念発起。
「単花蜜と同様に、小規模農家の単一品種、単一畑のピュアなオリーブオイルは、それぞれに風味が異なります。セドリックはその個性を生かし、それぞれのオリーブオイルをパリのシェフや感度の高い消費者に向けて販売することに。パリで、シチリア産のオリーブオイルと食材を販売するショップ<ラ・テット・ダン・レ・ゾリーヴ>をオープンしました」
そしてその東京店を、勅使河原さんが手掛けることになったのです。
「セドリックはよく、ごはんにオリーブオイルをかけて食べて欲しいと言います。なぜならフランス人やイタリア人にとってのパンは、日本人にとってのごはんだから。それがおいしければ、日本でももっと日常的に使ってもらえるようになるから」
ということで、東京の<セドリック・カサノヴァ>で取り扱っているオリーブオイルとシチリア食材を使った小皿料理のコースを提供する「ターブル・ユニーク」(現在は閉店)で、締めに出していたのがケイパーごはん。
<やいづ善八>との共催イベントでは、<セドリック・カサノヴァ>のマグロのブレサオーラ(マグロの生ハム)とリノーザ島のケイパー(塩漬け)をのせ、やきつべのだしとオリーブオイルをかけた絶品のだし茶漬けを出していただきました。
「母は料理上手で、子どもの頃の私は、テレビを見ながら鰹節を削らされていました。一人暮らしを始めてからは、母が通っていた乾物屋さんで昆布と鰹節を買い、具沢山のお味噌汁を作るように。外ではフレンチを食べることが多いので、家では和食が基本です。昆布と鰹節を使ってだしをとってきたので、だしパックは<やいづ善八>のもの以外、使わないんですよ」
料理の参考にするレシピ本は、ほとんどが知人や友人の著書。
「今日は、友人の鳥海明子さんの『ひとりごはんの薬膳レシピ』に掲載されているきのこの豆乳スープを作りました。昆布とやきつべのだしの荒節でだしをとり、玉ねぎと塩きのこを入れて、白味噌とオリーブオイルで味付け。おいしいんですよ」
現在、勅使河原さんには2つの使命があります。
「以前、"あなたもグランシェフ"というテレビ番組の翻訳の監修を頼まれたことをきっかけに、ジョエル・ロブションとご縁ができたんです。その後は来日するたびにインタビューの通訳をして、『ジョエル・ロブションのすべて』という800レシピ本の翻訳も手掛けました」
『ジョエル・ロブションのすべて』は、茹で卵の作り方からおもてなし料理まで、ものすごい充実度の本。1年半ほどかけて翻訳した本を出版しましたが、なんと1年半後、日本の出版社が倒産。
「ロブションが亡くなる前、最後に通訳をしたインタビューのなかで、フランスでは"おじいさんが1人死ぬのは、図書館が一個燃えたのと同じ"ということわざがある。技術や知識を伝えることは大切なんだと話していました。そして、"自分たちが地球にいる時間は限られている。だからここにいる間は、絶対に上を目指さなくてはいけない"ということも。それがすごく心に残っていて、ロブションが亡くなった3日後に、この本をもう一度世に出すべく、出版社に営業に行きました」
無事、企画が通り、今は再出版の準備中。
そしてもう1つの使命は、日本酒の燗酒のおいしさをフランスに伝えること。
「仕事で鳥取の<日置桜>という酒蔵を訪問したのですが、軒下に日本酒が入ったタンクが置いてあったんです。それまで日本酒はワインと違って寝かせず、すぐに飲むものだと思っていたのでかなりの衝撃でした。その完全発酵させた熟成酒を御燗にしたときのおいしさといったら、もう! これは洋風の食事の食中酒にもぴったりだと気づいたんです」
ちょうどパリ在住の友人も同じことを考えていたそうで、2016年から燗酒のサービスに特化したお燗番たちと協力してフランスで燗酒を出すという活動をするように。
「誰に頼まれたわけでもなく、稼ぎにもならないボランティアですが、これはライフワークだと思っています。フランスでは日本酒というとフルーティな冷酒が人気だけれど、ワイングラスで飲んでいるうちは、ワインに勝てない。燗酒のおいしさを伝えることで、日本を知ってもらいたいと思っているんです」
取材・文/藤井志織
東京都生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒。ワイン専門商社勤務後、フランス人シェフ招聘ビジネスに7年半関わり、2000年フードデザイン&イベントプランニング会社「CREMA」を設立。食イベントの企画制作、レストランのHP制作、イベントのPRコーディネートなどを手がけるほか、料理系に特化したフランス語専門通訳者および翻訳家としても活動。シチリアのオリーブオイルや食材を扱う<セドリック・カサノヴァ>の商品は、現在、大手町<CAFÉ STUDIO BAKERY>に常設しているほか、オンラインショップ https://cedriccasanova.jp/ もある。